『雨中の大橋』の中の日本文字の解読B
ゴッホは娼婦と7月13日に結婚していた!!
「あおぽ」352号・353号で、「ゴッホは日本語を知っていた」という記事を掲載しましたところ、大変な反響を呼び「とても読みやすくゴッホのことがよくわかった」「エッ!そうだったんだ。」「感動しました。次の号が楽しみです。」などたくさんの声が読者の方々から寄せられております。 そこで、今号からはいよいよゴッホがなぜ浮世絵を模写して絵の周りに日本語を描いたのか、その核心に迫っていきます。
歌川派門人会の名誉会長である五井野正氏(雅号 歌川正国)は絵の周りに書かれた日本文字を科学的に完全に解読し、ゴッホの謎を世界各国で発表、大きな話題となっています。
日本では「青いポスト二十一」の主催で秋田で始めて講演をして頂き、そして今度は「あおぽ」の紙面上でも世界で初めて連載して頂くことになったものです。
ゴッホが世界的に人気のある画家であるにもかかわらず、ゴッホの生涯については謎に包まれたままでした。
ただ、ゴッホがオランダ・ハーグの港で出会った娼婦クラシーナ・マリア・ホールニック(通称シーン)と同棲していたことは一般的に知られている事実ですが、そのシーンから歌川広重作の「大はし阿たけの夕立」のクレポン(浮世絵を縮小した通称、縮緬絵)を一枚手渡されてショックを受け、油絵の画家の道を歩むことになったこと、4枚のジャポネズリの絵を描き、日本語を知っていて絵のまわりに文字を描いたことなどをあおぽ第352号でお知らせしました。その絵の周りの文字を科学的に解読し、今までの説をひっくり返すような新説を世界的ゴッホ研究家でありまた、現存作家としては世界で初めてロシアのエルミタージュ美術館で展覧会を開催した五井野正氏(雅号 歌川正国)が米国のバーミンハム美術館、ロシアのエルミタージュ美術館など世界各国で発表し注目されているのです。
今号では、絵の周りの文字を解読して結婚していたことを解明、このことについてわかりやすく掲載しています。
今度は、この画の上部の文字に注目して欲しい。
ある日本の美術評論家は、この漢字を左から読んで「木吉原八景○長人○」と読みとって、意味不詳と感じたらしく、それ以上は判読していない。
しかし、これこそが現代人の研究家の盲点で、ゴッホの存在していた当時の日本では文字を右から左に読んでいた事を全く考慮していない。
つまり、左から読むというのは、欧米人や戦後の日本人の習慣と気がつくべきだ。
そこで評論家が読んだ最後の四文字の「○長人○」は右から読んで「内人長吉」と判読出来るはずで、この言葉なら日本語として意味が通ってくる。
先ず”長吉“という言葉を聞くと、日本人は男性の名称を連想するが、ゴッホは一体、この特殊な漢字をどこから引用してきたのだろうか?
そこで、ゴッホは浮世絵を400枚以上コレクションをしていたので、オランダの国立ゴッホ美術館所蔵の「ゴッホの浮世絵コレクションカタログ」から長吉という文字が書かれている浮世絵を探し出して見ると、『芸者長吉』というタイトルの鏡絵(ゴッホ美術館図録No.272)一枚だけが発見される。
ゴッホは果たして、この『芸者長吉』の鏡絵から”長吉“という漢字を引用したのかであるが、前から知られている事実として、個人蔵のゴッホ作『タンギー爺さんの肖像』画の背景図に、何とこの『芸者長吉』の鏡絵の浮世絵が描き込まれている事が、明らかにされていたのだ。(次ページ、『タンギー爺さんの肖像』画
参照。)
ゆえにゴッホは1887年の同時期に、この鏡絵を『タンギー爺さんの肖像』画の背景図に描き、さらに「芸者長吉」から長吉の文字を『雨中の大橋』の上側に写し書いたと判断できるのである。
つまり、「長吉」は芸者の名前で、芸者は西欧でいうと高級娼婦ともいえるが、この長吉という名称は男ではなく女だったのである。
ゆえに「内人長吉」とは、「長吉」という名の芸者をうちびとにする、あるいは身請けするという意味になるが、ゴッホは何故この様な文字を書いたのかである。
そこで、この「芸者長吉」を何かの例えであると考えると、この『雨中の大橋』が描かれたのは1887年のパリ時代なため、それ以前に「芸者長吉」を内人にしたという表現にぴったり当てはまる事実と言えば、1882年に娼婦であったシーンと同棲生活をしていた事がまず思い浮かべられる。
しかも、そのシーンがこの『雨中の大橋』の原図である広重画の『大はし阿たけの夕立』をゴッホに与えたことは既に前に述べた。
つまりシーンはゴッホと内縁生活に入る前は娼婦であったが、娼婦ゆえに、ゴッホの家族や親類が強く同棲に反対し、ゴッホを精神病院に入れようとさえした。
しかしシーンは、ゴッホの絵画のモデルであり、日本の芸術をもたらし、油絵画家への道を与えてくれた、運命の妻だったのである。
そこで西欧人は、芸者を日本芸術(浮世絵)の高級モデルと認識していたので、運命の広重の図を模写し、この絵の上部側に、シーンを「芸者長吉」に例えて、”内の人“とした事を漢字で「内人長吉」と書いたと考えられるのである。
何故なら、1882年7月13日(水曜日)付けのテオに宛てた書簡で次の様にゴッホは述べているからである。 「結婚の約束は二重になっている。先ず周囲の事情が許し次第、届け出結婚をするという約束。
第二には、…(中略)あたかも既に結婚生活を続けていたかの様に互いに慈しみ合い、何事も分け合い、どんな事があっても離反しない様に完全にお互いの為に生きる、という約束だ。………(中略)取りあえず法定結婚の問題は僕が自分の手で作品を売って、もっとお金が入るような時期になるまで、このままにして置いて欲しいということだけをお頼みするよ」
とテオに初めてシーンと内々に結婚している事、届け出が必要な法定結婚は家族が許してくれる場合、もしくはゴッホが画家業として自活できた時に出すという事をテオに告白しているのである。
つまり法定結婚はシーンが娼婦であるために、親族の猛反対が起き、テオの仕送りも危ぶまれて、生活への不安が生ずるからである。
ゴッホはこの手紙の中で一番の理解者テオを通して、シーンとの内々の結婚を家族に告げている。 何故なら、その一週間前の7月6日のゴッホのテオへの書簡では
「僕が彼女を妻として迎えているという事をお父さんが許してくれればいいがと二人で真剣に考えている事だ」(書簡212)
と記述し、ゴッホとシーンの間には内縁の夫婦関係になっている事をテオに既に述べているからである。
又、結婚に関しては「僕らは自分たちの立場に何かしら歪んだもののあるのは厭で、結局は結婚が、噂話を沈黙させたり、僕らが非合法に同棲しているという謗りを防いだりするために唯一の根本的なやり方だと考えているのだ。
もし二人が結婚しないとなれば、何かやましいことがあるように言われるだろう」(書簡198)
「彼(ゴッホの父親)は僕が彼女(シーン)と結婚する事を認めないだろうが、もしも僕が結婚をせずに彼女と同棲なんかしたら、もっと悪いと考えるだろう」(書簡204)
と、ゴッホの結婚観を既にテオに手紙で伝えていたのである。
ゴッホ研究者は偏見もしくは道徳観からなのか、ゴッホの人生を語る時、シーンとの結婚の事にはふれずに、あるいは結婚は口約束だけだと決めつけて、シーンと一年半の同棲生活の後、別れたと記してきた。
あるガイドブックにはシーンとの同棲生活を評して、「常識はずれの破廉恥な生活」等の一方的な非難を浴びせているのだ。
しかし、ゴッホの書簡を読めばゴッホがシーンやシーンの子供との生活にどれだけ心が癒され、幸福な日々を過ごしていたかは、直ぐに理解されるはずである。
つまり研究家達が、どれだけゴッホの書簡を正しく読んでいるのかと疑ってしまう位の事実の食い違いが起きているのだ。
仮にゴッホの書簡どおりに読んだとしても、読む人の偏見からシーンをいまわしい娼婦と見て、偉大なゴッホとの結婚は社会通念上、美術教育上、ふさわしくないと考えているのではないだろうか。
その様に、今でも娼婦に対する侮蔑は強いのだから、ゴッホ生存当時はもっと強かっただろう。
ましてや牧師の子供に生まれ、伝道師としての道を歩んできたゴッホの場合、特に家族や親類から強く非難されたのである。
実際にシーンはゴーギャンへの手紙で 「親戚の画家達(テルステーフ氏達)が、アトリエの中に共同便所を持ち込むなとわざと私に聞こえる様な声で言ったのです。」
という記述が、娼婦に対するその当時の考え方を物語っている。
この事はゴッホの心をどれだけひどく傷つけた事であろうか!!
それはシーンとその赤ん坊に対するゴッホの思いが、ゴッホの書簡の中で記述されている事でも分かる。
「テルステーフ氏には僕は激怒しているし…(中略)シーンの為にも赤ん坊の為にも、又僕自身の為にもこうした場面が二度と起こらないことが望ましい」(書簡216)
ゆえにゴッホはテルステーフ氏がもたらした災いに対し、まだ興奮のさめぬ次の日の7月13日、シーンへの忠実な愛や名誉を形に示す為にゴッホは法定結婚を先送りした内々の結婚を、テオにこの手紙の中で告げたと思われるのである。
そして、ゴッホはシーンとの幸福な家庭生活を味わうのだが、テオから150フランの仕送り、(今の日本の生活感覚にすると7 1年半の困窮した生活に限界が生じて、ゴッホの家族は物価の安いドレンテに引っ越す事にした。
「僕の計画では女や子供達と一緒に行くだろう」(書簡316)
とゴッホは考えていたが、弟テオや特にシーンの家族の猛烈な反対により、ゴッホ一人だけになってしまった。 「今日僕は、彼女と静かな一日を送った。自分がどんな位置にいるかを十分彼女に説明しながら、僕が自分の仕事の為に行かねばならないこと、そして一年間、出費を制して収入を計り、今まで僕にとって荷の重すぎた過去の埋め合わせをしなければならない(借金返済の意)事について彼女と真剣に相談した…(中略)弟よ、こんな訳なのさ。別れないで済むことなら、僕らは別れはしないだろう。繰り返すけれども、別れないですむのだったら、僕らは別れまいよ」(書簡318)
とテオに自らの辛さを当てているのである。
そして、ゴッホはシーンと子供達と駅で別れる時、どんなにつらく悲しかった事であろうか。 「前にも話した様に、あの小さな男の子は僕に非常になついていた。
僕がもう列車の座席についた時までもなお、あの子は僕の膝の上にのっていたのだ。
こうして我々はお互いに何とも言い表わしようのない悲しい気持ちで別れたものと 思う。だが、せめてそれだけのことなのさ」(書簡326)
そして、ドレンテの地に移っても一人ゴッホは身の辛さと悲しみに泣き、シーンと別れた事を何度も後悔するのである。 「彼女と別れるよりは、むしろ結婚して田舎で暮らすためにもうひとふんばりの試みを賭けてみたかった。むろん、君に事情を話さずにそんなことをするわけはないが。
しかし、一時の財政上の障害はあるにせよ、それが正道だ。
それが彼女を救うばかりでなく、いまや倍も激しさを加えてきている僕自身の精神的苦悶にも止めをさしてくれるかもしれない、そう僕は確信したのだ。僕はいっそ苦杯をなめ尽くしてみたい気持ちだった」(書簡328) とテオに述べると同時に、最後まで父親が結婚を認めてくれなかった事に言及し、しかし、借金と経済的困窮がシーンと別れる理由と述べ、この結果は今も血の出る様な苦しみが続いているとテオにつらく当たっているのである。
その後、ゴッホはドレンテからヌエネン、そしてアントウェルペンに移るが、シーンを想い出しては経済的な自責の念にかられてか、テオにつらく当たるのである。ある時は金はいらないと言い、ある時は突然に金を送れと言い、そしてテオの反対を押し切ってテオの住むパリに出る。
そこで浮世絵に熱中したロートレックやベルナール、そしてタンギー爺さんに出会うのである。
ゴッホは浮世絵がもたらした運命を感じて再一度、シーンの事を想いだす。
そして、ゴッホはシーンと約束した法定結婚の代わりに、この『雨中の大橋』を描き、彼岸に当たる日本において、シーンを娼婦としてではなくて、印象派の人々に芸術的モデルとして憧れていた芸者の身分に当てはめ、シーンを内縁の妻にした事を、この絵によって届け出したと感じ取れるのだ。
何故ならシーンを家内にした事を漢字で書き、さらに、この絵の中に結婚日を書いているからだ。
(次回に続く)