『雨中の大橋』の中の日本文字の解読E
ゴッホは娼婦と7月13日に結婚していた!!
ゴッホは13本の向日葵が大好き
13という数字はキリスト教社会では忌み嫌われている数字である。
一般に13日の金曜日といえばナザレのイエスが十字架に張り付けられた日として人々に知られている。
日本では4(死)や9(苦)が言葉の語呂として忌み嫌われているが、西欧では死刑囚が登る13階段など13は不吉な死のイメージを持っている為にホテルやビルでは13階の表示が無いところが多い。
ところがゴッホの場合、例えばアルルにおいて『向日葵』の絵を4枚描いているが、その時の絵の制作について、次のように述べている。「今3枚の画布を制作中である。一つは、緑の花瓶に三輪の大きな花の明るい背景の15号、二つ目は、濃紺の背景に種子のあるのと葉を取ったのと、つぼみがある三輪の花で25号、三つ目は、黄色の花瓶に十二輪の花とつぼみで30号のものである。
最後のものは明るい色が明るい色の上に重なっているのだが、これを最良の作品としたい」(書簡526)と記述しており、十二輪につぼみを合わせた13本の向日葵を他の向日葵の作品の中でも最も最良の作品としたいと言っているのである。
もし、ゴッホが手紙の中で13本の向日葵とか十三輪の向日葵と記述したり、実際に十三輪の向日葵を絵に描いたならば不吉な絵として、手紙を読む人や絵を見る人に嫌悪感を与えてしまう事をゴッホはもちろん知っていただろう。
だから、あえて十二輪につぼみという言い方をして、又、その様な絵を描いたと考えられるのである。
ところが実際には、つぼみであろうと、花を咲かせている向日葵であろうと、本数に変わりないので、ここにゴッホが西欧人の忌み嫌う13という数字の表現を避けながら、実は13本の向日葵をまるで何かを象徴するが如く描いていたのである。
しかも、13本の向日葵を描いた絵を何故ゴッホは最高の向日葵の絵にするつもりだとテオに述べたのだろうか?
そこで、その謎を解く前に、ゴッホが『雨中の大橋』の作品の中で先ず画中左下の色紙のタイトルに713?4という数字を書き込み、この数字がシーンとの内々の結婚宣言を7月13日から14日にかけてテオへの手紙を書いた日にちを意味していた事を再一度思い出して欲しい。
さらに、『雨中の大橋』画中右上の朱色の短冊形の「夫」の文字の後に続く文字がBとか13にしか見えないが、この文字がこの絵の作者であるゴッホを意味する事を説明してきた。
そこで、この文字が実は13である事が同じくゴッホ作の連作になっている『花咲く梅の木』の画中にある作者名を表示する朱色の短冊の文字にも使われている事から確定的となる。
ゴッホ作『花咲く梅の木』の作者は「十三の大錦」
今までゴッホ作『花咲く梅の木』は歌川広重の「名所江戸百景/亀戸梅屋鋪」をゴッホが忠実に模写した習作の絵だと研究者に言われ続けてきた。
実際に、この浮世絵から写し取ったトレース用紙も残されている。
しかし、確かに絵柄は全く同じ様だが、短冊や色紙の中の文字は全く違うし、ゴッホが描いた絵の外側にはゴッホの造語らしき漢字が書かれている点でも大きく違う。
しかも、原画の広重の浮世絵では、色紙形のタイトル文字には「亀戸梅屋鋪」と書かれているのに、ゴッホの絵の色紙形のタイトルでは右から読んで「江戸内大木」とゴッホが造語した漢字でタイトルが書かれているのだ。
そして原画の「亀戸梅屋鋪」の浮世絵では左下の位置で黒々とした木の中に朱色の短冊で「廣重畫」と書かれているのに、ゴッホの絵では短冊の配置は全く同じだが朱色の短冊の中の文字は一見、意味不詳の文字が書かれ、明らかに「廣重畫」ではない事が直ぐに分かる。
この短冊の文字を解読すると、先ず一番上の文字は「大」という漢字に判読できると思う。
すると、次の文字は「十」の様に見えるだろう。
この「十」が漢数字の十を表示しているのか、あるいは西欧的な言い方をすれば十字のクロス記号を表示しているのかは、この段階では判断がつかない。
さらに「十」の後に続く文字は明らかに日本語としては見えず、何かの暗記号を書いたとしか言い様がない。
ところが暗記号の後の文字は「錦」という漢字にハッキリと読みとれるはずである。
「錦」とは紋様の美しいものを例える時に使われるが、一般的に「錦絵」と言えば浮世絵の事をいう。
「錦」はこの『花咲く梅の木』の画中左側の漢字「大黒屋錦木」の錦とまったく筆跡が同じなので間違いはない。
前述した高名な美術評論家もこの短冊の文字の判読に挑戦して、この「錦」という漢字だけは判読出来た様で、
「漢字が二つか三つかも区別しがたく、下半分の字は何とか錦と読めなくもないようである」
と、記述している。
そこで、以上の判読出来た文字を上から読むと、「大十○錦」となる。
これでは日本語としては全く意味不詳となる。
しかし、この最初の文字「大」と最後の文字「錦」を合わせて読むと「大錦」となり、これは「大判の浮世絵」あるいは「大きな浮世絵」という意味となって、立派な日本語となるのである。
しかも『雨中の大橋』の原画がシーンの記述からクレポン(縮緬絵)という浮世絵を三分の二くらいに縮小した版画から写し取った為に、そのクレポンから比較すると広重の「亀戸梅屋鋪」の浮世絵は「大きな浮世絵」という表現にピッタリと一致する。
ゴッホがクレポンを小さな日本版画と表現したのは、この「『雨中の大橋』の中の日本文字の解読」の第一回目に、
「ぼくの画室はそう具合悪くない。ことに、小さな日本の版画を壁にいっぱいピンで止めたから、大いに楽しい」(書簡437)と、ゴッホがテオに宛てた手紙の中で記述していた事を思い出せば分かると思う。
すると、「大錦」に囲まれた中の文字は一体何であるのか?
そこで『雨中の大橋』の画中の右上の短冊の中の文字がケとイを重ねてケイの隠し文字にしていた、その技法を思い出して下さい。
その技法をここでも取り入れてみると、「十」の下の文字は「の」というひらがなに「三」という漢数字を重ねたものだと見えてきませんか。
つまり、『雨中の大橋』の画中の左下の色紙の中の文字と比較して見てください。
ゴッホはこの色紙の真中のたての字、つまり「阿たけの」の文字に似せて「13?4の」と書いているが、この色紙の中の「の」の文字と『花咲く梅の木』の左下短冊の中の「の」の文字の筆跡とが全く同じと分かるだろう。
ゆえに『花咲く梅の木』の短冊では、「の」の文字の下側に漢数字の「一」を右下がり斜めにして「の」に重ね、さらに「の」の右横に「二」の漢数字を右下斜めに書いて合わせて読めば、「三」になる。
すると続けて読めば、「の三」もしくは「三の」と判読できてしまう。
さらに、上の字の「十」と合わせて「十三の」もしくは「十の三」という日本語になってしまったのだ。
数字が「13」ではなく「十三」になっているのは、この漢数字が書かれている朱色の短冊が梅の木を描いた絵の中に置かれている為に、場所が日本、それも江戸であるがゆえに日本語の数字が用いられたと考えられる。
「13」は洋数字であって、日本語ではないからである。
そこで、「大錦」という漢字と合わせると、接続詞の「の」が必要になり、「十の三」よりは「十三の」の方が適切なので、「大錦」に続けて読んで「十三の大錦」もしくは「大錦の十三」と判読出来てしまう。
十三はゴッホの暗示数
この短冊に書かれた「十三の大錦」は同じく広重の「亀戸梅屋鋪」の画中左下の短冊の文字「広重画」に対応する作者名を表示する短冊であるから、もし「十三の大錦」の「十三」を単なる数字としての十三と解釈するならば、「13枚の大きな浮世絵」あるいは「13番目の大きな浮世絵」となって作者名とはならなくなってしまう。
ゆえにこの『花咲く梅の木』の画中左下の短冊の中の文字を本来なら単純に作者名の「ゴッホ画」と書けばよいのだが、「ゴッホ画」の文字の代わりに「十三の大錦」という言葉と数字が何故、書かれているのかである。
そこで、「十三」を「ゴッホ」の暗示的なイニシャルとするならば、「十三の大錦」は「十三」と「ゴッホ」を書き換えて表示すると、「ゴッホの大錦」となる。
「ゴッホの大錦」とは「ゴッホの浮世絵」という意味であり、それは「ゴッホの絵」ということになり、「絵」は「画」と同義語な為、「ゴッホの絵」とは「ゴッホ画」となって、原画の「広重画」とピッタリ対応してしまうのである。
つまり「十三」とは単なる数字ではなく、ゴッホの暗示数字だったのである。
ゆえに、ゴッホは「ゴッホの大錦」という言葉が「ゴッホ画」という意味になる事をきちんと知っている程に、日本語の使い方を日本人以上に良く知っていたのかと驚く位に感心しませんか!?
つまり『雨中の大橋』でも画中の右上の作者名を表示する朱色の短冊の中の文字、すなわち「妻(妾)ケイ夫○」の○の中がBではなく、実は13という数字でゴッホを表示していた事が、これによって確定的になったと思う。
すると『雨中の大橋』の右上の短冊の中の文字「妻(妾)ケイ夫13」の13の下に何の文字か記号かよく分からないものが描かれているのを見て、皆さんは何を想像し、何と解読しますか?
実は、この記号を解読すると、将にゴッホはここまでも緻密にこだわって文字や数字を書いているのかと驚いてしまうのだ!!