『雨中の大橋』の中の日本文字の解読F
ゴッホは娼婦と7月13日に結婚していた!!
「雨中の大橋」はゴッホの創作画
ゴッホの『雨中の大橋』の右上短冊形の中の文字を解読すると、「妻(妾)ケイ夫13○」と判読できた。この夫の後の記号文字はゴッホを説明する代用文字とすれば、ゴッホとケイの関係状態を示している。
妻誰々、夫誰々の表示は結婚式とか公式的な披露の場合に使われる呼称形式である。
そこで、この「13○」の暗示記号文字を解読する前にゴッホの性格や考え方、浮世絵からどんな技法や示唆を学んでいたかを知る事は非常に重要と考える。
つまり、今までゴッホが書いた日本文字を丹念に一つ一つ解読してきたが、漢字やカタカナ、数字の用い方や表示の仕方から、ゴッホは日本語をデタラメに書いたのではなく、少ない日本語の知識でも日本人以上の深い認識を表現していた事がわかってきました。
しかも、ゴッホは私日記の様に特別な名前や出来事等の秘密事項を、自分だけにわかる形で残していたのではなく、緻密なテクニックと浮世絵の様々な技法を用いて、偏見や先入観、表面的な考え方をする日本人に理解できない方法を取りながら、真に理解し合える日本人だけにわかるようにしていたという訳です。
例えば、この『雨中の大橋』の上部側の漢字は当時の読み方で、右から4文字を読んで「内人長吉」と読み、右上の黄色い色紙形の中の文字も「火(家)内長吉女」と解読した。
ゴッホが、娼婦だったシーンを芸者長吉に例えたのは、当時の西欧では娼婦を非人間扱いにしていた為に、シーンとゴッホの名誉を守るために浮世絵芸術のモデルとして描かれた芸者に例えたという事は前述したが、この技法を浮世絵では見立絵と呼んでいる。
見立絵とは、広辞苑辞書で「人物や場景をすべて当世風に変えて描いた、機知的な絵画。浮世絵に多い」とある。
例えば、小説家が実在する人物を名前や場所、時間も変えて、様々な体験や事実をドキュメント風にして描くことがありますね。
それと似たような方法を絵にも用いて、シーンを日本の江戸時代の芸者長吉に見立てて漢字にしたと言った方がわかり易いでしょうか。
ところが、ゴッホが画家である為に一般の人々は、画家は絵を描くものという固定観念を持ってしまい、絵の中や絵の回りの文字が見立て文字だとも知らず、判読もままにならないと、変わった画家だとか変わった絵だと思ってしまいます。
ゆえにゴッホの日本文字をデタラメ文字と、日本人研究者が早急に結論付けてしまった為に、日本文字を読めない世界のゴッホ研究者が、『雨中の大橋』や『花咲く梅の木』等、ジャポネズリ絵画をゴッホの日本趣味的な習作の絵と勘違いして、ゴッホの芸術的イメージを誤解してしまった嫌いがあるのです。
ましてや、ゴッホは西欧人なのですから、日本語を絵の中に書いていた事を知ると、何故、日本語?と考えてしまう人も多いと思いますが、日本人に対するゴッホの熱いメッセージを伝達してきていると、ここは素直に思い、今までの西洋画という固定観念を捨てて、大きなハガキの絵とか、賛の入った東洋画とか油絵の浮世絵とか考えて、文字を読む必要があるのです。
そして、ゴッホの絵を愛する日本人はゴッホが日本人に宛てた新しい絵画を創作したと、先ず日本人が理解してあげなければ、どこの国の人が理解できるというのでしょう。
ゴッホは浮世絵を作っていた
このゴッホの創作絵画は、もちろん浮世絵から学んだ絵画技法となっている。
例えば、絵の中に文字を入れるのは浮世絵では常識。
ゴッホが400点以上の浮世絵をコレクションしていたのですから、いかにゴッホは浮世絵を愛し、浮世絵に魅せられ、浮世絵に影響されたかはおわかりでしょう。 ゴッホの浮世絵コレクションの中には文字だらけの浮世絵もあります。
だから、ゴッホは浮世絵を模写したのではなく、浮世絵を作っていたと考えれば、ゴッホの『雨中の大橋』や『花咲く梅の木』の絵の意味がよくわかってくるものです。
「我々はやはり浮世絵の様な作品を作っているんだ。それ以外の事は考えない事にする」(書簡555 アルル)
という言葉からも、ゴッホはアルルにおいて、それこそ『花咲く梅の木』の作者名を表す短冊の中に「ゴッホの大錦」と書いた様に、浮世絵風油絵を描いていたことがわかる。
ゆえに、アルルで描いた13本の向日葵の絵は、まさしくゴッホの大錦、つまりゴッホの描いた油絵の浮世絵だったのです。その他の絵に関しても、
「浮世絵の様に濃淡のない色面にしたい」(書簡491 アルル)
「この素描(デッサン)をどうするのかわかるだろう。浮世絵の続き物と同じ様に6枚か10枚、または12枚のセットにするのだ」(書簡492 1888年5月29日アルル)
と弟テオに宛てたゴッホの手紙から、アルルでゴッホが浮世絵の様な素描(デッサン)や油絵を描いていた事が確認される。しかも、
「君は『むすめ』という言葉は何のことか知っているか。(ロティの『お菊さん』を読めれば分かる)僕は、『むすめ』を今一度描いたばかりだ」(書簡514 アルル)
と、ゴッホは日本に関する本から日本語を学び、又、日本語の絵のタイトルさえもつけていたのだ。
ゴッホはオランダ語、英語、フランス語と話せたので、日本人の様に外国語を覚えるのに難解だという意識はなかっただろう。
ゆえにゴッホが、浮世絵の文字を多少読めても何の不思議はない。
ましてや、ゴッホはアルルを日本と思っていたくらいなので、ゴッホの日本への思い入れから日本語や日本の習慣、伝統を身につけていたとしても当然の結果というものである。
「僕の方はここに日本の絵をおいておく必要はない。ここにいるのは日本にいるようなものだと常々自分に言い聞かせているのだから」(ゴッホの末妹 ヴィレミーン宛の手紙 1888年9月8日頃)
「僕はここで、ますます日本の画家の様に小市民として自然の中に入って生きて行くだろう」(書簡540 アルル) というゴッホの言葉は、日本人にとって驚くべき位に、ジャポニズム(日本主義)のゴッホとして、日本人の心の中に新たに生まれてくるのではないでしょうか。
ゆえに浮世絵の事や、ゴッホの日本への強い思い入れ等、何もわからないゴッホの日本人研究家が、この『雨中の大橋』と『花咲く梅の木』の二点のゴッホの作品を見て、浮世絵の図を正確に模写していると解説するから、絵の廻りに書かれている日本文字も単なる浮世絵からの模写の字だと見てしまうのでしょう。
南仏アルルは見立て日本
そこでゴッホがアルルを日本と思い、ゴッホ自身が日本の浮世絵師と思っている事に関し、浮世絵の知識がなければ単なる日本かぶれとか日本趣味の変人とか、西欧人から見れば多少の偏見の眼でゴッホの人格を観てしまうだろう。
例えば、本来ならフランスのパリから見たら日本は地理的に東の方角なのに、何故ゴッホは南フランスを日本と思ったのかという問題もゴッホの特異的性質、あるいは感覚に帰してしまいがちであるが、しかし浮世絵の絵画技法でよく使われる「見立て」という浮世絵の世界にゴッホが浸っていたからだと考えれば納得がいくのである。
何故なら、浮世絵では「見立て」という技法で人物や場所、時間を自由に変えて、作者の主観や主張を絵の中に強く反映させるという方法が取られていたからである。
ゴッホが数多くコレクションしていた源氏絵にも、「見立て源氏」といって足利将軍を源氏物語の光源氏に見立てた浮世絵があるが、(ゴッホ美術館ゴッホの浮世絵コレクションカタログNo.263、3ページ中図、No.264等)実はこれも実際には徳川将軍の生活の有様を描いた見立て絵となっている。
庶民にとって古今東西、王様や皇帝の普段の生活の有様にあこがれや興味を持っている人達が多いでしょう。
しかし西欧においても日本においても、それをあからさまに絵に描くことは難しい。
もちろん江戸時代においても宮中や将軍を描く事は御法度であったが、近時代に限定されていた為に、浮世絵師達は法の網をくぐって、時代を遠い過去の室町時代に設定して、豊臣の時代や江戸時代に起こった歴史や事件等を名を変え、時代を変え、浮世絵に描いてきたのである。
例えば元禄14年に起きた赤穂浪士の吉良上野介屋敷への討ち入りは、時代を室町時代に変えて主役の大石蔵之助の名前を大星由良之助として、さらにタイトルも仮名手本忠臣蔵と題した浮世絵を数多く出版している。
これも見立て絵の手法だが、ゴッホがここまで忠臣蔵の背景を知っていたかどうかはわからないが、しかし、ゴッホの浮世絵コレクションには忠臣蔵の浮世絵が何枚かあり、特に「今様押絵鏡/桃井若狭の助」の鏡絵がゴッホの自殺!?(自殺ではなかった)に、大きな影響を与えたのである。
その他にも中国の山水画に良く描かれている「瀟湘八景」という八枚の連作があるが、これを「吉原八景」に見立てて、吉原の祭事や行事、花魁の生活風俗を描いた八枚の連作の浮世絵がある。
ゴッホの浮世絵コレクションにも見立八景(カタログNo.158、左図)や見立吉原五十三対(同カタログNo.9)等、見立ての文字が入っている浮世絵が10枚以上見られる。
ゆえにゴッホ作『雨中の大橋』の画中左側の漢字「吉原八景長大屋木」の漢字は解読の結果「吉原八景/長い大橋」となる事は前述した通りであるが、この意味は吉原八景と題した八枚の連作シリーズの内の一枚で、「長い大橋」というタイトルの絵だとゴッホは表現している。
つまり、ここでは広重の「名所江戸百景」のシリーズを、ゴッホは「吉原八景」のシリーズに見立てて、『大はし阿たけの夕立』のタイトルを「長い大橋」というタイトルにして見立てていると表現しているのだ。
となれば、ゴッホはこの『雨中の大橋』を描く時に広重の『大はし阿たけの夕立』の浮世絵を単なる模倣として描いたのではなく、あくまでも見立て絵にして描いていたと言える。
つまり、広重の原画と違って短冊や色紙のタイトルを画面の外に出して、この絵が、『大はし阿たけの夕立』の画でない、つまり模倣の絵ではないとゴッホが主張していると見なければならない。
短冊の中の文字は判じ文字だった
さらに短冊の文字「妻(ケイ)夫13○」は、この絵の作者であるゴッホを意味する為に、このような表示方法は浮世絵で良く使われる判じ絵という手法をゴッホが応用したと考えられる。
判じ絵とは、大辞林の辞書で「文字・図画などに、ある意味を隠し、人に判断させて当てさせるもの」とある。
これは幕府が一時期、浮世絵の中に芸者や役者の名前を記載して宣伝する事を禁じた為に、浮世絵師達が判じ絵手法によって、名前を書かなくても浮世絵を見る人々に、置屋名や源氏名・役者名等がすぐわかるように、数多く描いたからである。
ゴッホの浮世絵コレクションにも数多くの判じ絵があり、特に「辰巳八景ノ内」(ゴッホコレクションNo.165)の浮世絵は芸者の名前を5つのデッサン画で表示しているが、ゴッホはこのデッサン画の一つを『雨中の大橋』の短冊の文字に用いている為に、ゴッホは判じ絵の手法を知っていた事がわかる。 その他に判じ絵手法として役者絵の着物のデザインに、文字や記号を描いて役者名を当てさせる方法も数多く見られる。
例えば、ゴッホコレクションNo.349の役者絵は、歌川国芳の三枚続きの歌舞伎絵の真中の一枚であるが、その絵の中に描かれている朱色の短冊には「智恵内」と書かれている浮世絵がある。 この人物が奴の姿をして、奴智恵内という名前で陰陽士である鬼一法眼に何とか取り入ろうとするが、実は「智恵内」の本当の名前は、この着物に描かれている無数の白い文様で表わされていた。
その一つの文様を判じると、喜ぶのくずし文字である の下に三が書かれ、その下に大と漢字で書かれた合わせ文字とわかり、この字を「三太」と読ませ、これが奴智恵内の本当の名前である事を見る人に知らせている。
ところが鬼一法眼は奴智恵内がなかなかの知恵者なので、“知恵が内”ではないと見破ってしまう。
補足すると、この人物の朱色の帯の黄色い模様は、“知恵の輪”を描いて「知恵内」に対応している。
ゆえに、ゴッホがこの『雨中の大橋』を油絵の浮世絵として描き、判じ絵の手法を利用して短冊の中の文字にも判じ文字にしていると考えれば、この絵の意図がわかってくる。
そこで、大辞林辞書の「文字・図画などに、ある意味を隠し、人に判断させて当てさせるもの」の説明どおり、「夫13○」にある意味を隠し、日本人に判断させて、ゴッホの○と当てさせる、というのがゴッホの意図なのである。