平成5年から始まっていた展覧会の妨害事件@
“ゴーギャンを裸にしたから”と美術館館長が展覧中止の圧力
信州博では1日5千人以上が押し掛けた
五井野正博士(ラトビア共和国国立芸術アカデミー名誉博士、雅号・歌川正国)がゴッホの日本文字を解読し、そのゴッホの想いを絵画に表現し、展覧会を最初に開いたのは、平成4年(1992年)7月、東京銀座の銀座アートミュージアムにおいてであった。
その展覧会は美術界はもとより、著名人、画家、デザイナー等に大きな影響を与え、この展覧会の後、浮世絵の中に実際の人物が登場するCM広告が数多く流れるようになった。
さらに翌年の平成5年の夏、信州博覧会で開催された五井野正画伯の企画の展覧会では、たった2週間で、5万人以上の入場者を数え、暑い中、展覧会に入場する為の人々の長い行列が何度も起きた。
有名なタレントや各国から美術関係者が来る等、米国や西アジア・ヨーロッパ等の美術館での展覧会となるきっかけとなった。
そしてこの展覧会の目玉と言える「鏡の中のホッホ」(図@)は名品として福岡県立美術館ですぐに展覧された。
この時、この「鏡の中のホッホ」が入館者の評判となっていることを知って、同じ県内の田川市美術館館長が歌川派門人会会長であった五井野正画伯に直接会って展覧会を開きたいと申し出た。
出展の費用経費全てを美術館側が出すと、館長のたっての願いを受け入れ、福岡県田川市美術館で平成6年1月4日〜30日まで3週間強の展覧会を開くことになった。
ことは美術館にかかった一本の電話から
展覧会の準備作業中、突然に美術館側から五井野画伯企画の作品をはずせと暴言を述べてきた。美術館に入った一本の電話によって、館長が急に態度を変えたというのだ。既にポスターや入場券も配布していた矢先にである。
主催者側はこのような常識を逸した申し入れに対し、五井野画伯企画の作品のどこに問題があるのかと直ちに厳重に抗議を行うと、美術館の係長は全く問題ないと好意的に協力した為に、館長側は今度は五井野画伯の企画作品を外したポスターや入場券を別に作ったり、記者会見を延ばしたり、様々な形でこの展覧会に邪魔する態度を取った。
展覧会を開きたいと言ってきた館長が、たった一本の電話で突然ひるがえって中止を求めたことは、その電話の主が美術館に大きな影響をもつ人であり、展覧会を妨害してきたことが関係者に明白となった。
図2
後に主催者側が展覧会に対する圧力の理由に対して美術館側に質すと、館長はその電話の主にはふれず、理由として、「ゴッホやゴーギャンのファンがたくさんいるのに、ゴーギャンを裸にして、あれでは愚弄していることと同じだ」(図2)と、美術館係長に伝え残しただけでシャットアウトしたそうである。
もし、その理由が本当とすれば、その問題の絵だけを外せと言えばよいのに、五井野画伯企画の作品全てを外せと要求したことは単なるこじつけとしてしか考えられず、実際は五井野画伯個人への妨害行為であることは明白。
要は五井野画伯の展覧会に対する妨害圧力が、この頃から既に始まっていたと言える。
ゆえに今回のテレビ局からの言論圧力は偶発的に起きたというよりも、全国各地で起きている一連の五井野博士に対する組織的な妨害事件に関連したものと考えた方が理解しやすい。
国内の圧力を避けて海外での展覧会を始める
この様な様々な嫌がらせにもかかわらず、田川市住民の一割以上にあたる人々が会期中に押し寄せ、美術館始まって以来の黒字と美術館係長に言わせた程の記録的大反響となった。
ゴーギャンを愚弄していると感じて非難した人は、館長の他に誰もいなかったと関係者は語った。
そして市街地から離れた辺ぴな場所で開催したにもかかわらず、展覧会が大反響だったので、読売新聞社が驚いて今度は別な美術館で展覧会を開きたいと申し出てきた。
そこで2〜3ヶ月後という異例の早さで宮崎県都城市立美術館で行うことになったが、またもや展覧会の準備を進めると、田川市美術館と同じように又ここでも圧力がかかったのか、突然に五井野画伯企画の作品の展示は認めないと言ってきた。
しかし主催者側の強い抗議によって今度もその要求を撤回させたが、美術館側の非協力姿勢の中で展覧会が開催され、それでも田川市美術館での展覧会と同じように大好評で終わった。
そして3ヶ月後の7月にはデンマークやアルメニアで展覧会が行われ、9月には米国で展覧会が行われた。
翌年の平成7年の夏には、ついにロシアの国立プーシキン美術館に続いて、世界三代美術館の一つエルミタージュ美術館で開催され、現存画家では世界で初めての展覧会が開かれたと評価される程の快挙を成し遂げたのである。