平成5年から始まっていた展覧会の妨害事件A
日本で中止になった“印象”(インプレッション)展
「ふる里村情報」の編集長として日本文化再生の提唱
五井野正博士・教授(ラトビア国立芸術アカデミー名誉博士、ウクライナ国立芸術アカデミー名誉教授、他)は、平成7年(1995年)7月ロシア国立プーシキン美術館、同年9月国立エルミタージュ美術館での展覧会や講演会等で、ゴッホ研究の国際的な芸術家として認知された。
博士の学術研究は、ゴッホの日本文字解読や、浮世絵コレクション400点の科学的調査から、パリやアルル時代のゴッホ絵画への影響や組不揃いの作品の完全再生に大きな評価を受けた。
ロシア国立芸術アカデミー名誉会員にも選ばれ、日本人現存作家では建築の丹下建三氏と博士だけ。
ゴッホ研究のきっかけは、それより8年前の1987年、日本の大手保険会社がゴッホの14本のヒマワリ絵画を総額58億円で買ったことに由来する。
博士はその時ベストセラー小説家として、又自社ビルを持つ出版会社の会長として雑誌「ふる里村情報」を発行していた。
当時浮世絵といえば春画というイメージが強かった為、学術的研究が日本でなおざりにされ、浮世絵の評価も価格も低かったが、幸いに博士は北斎の肉筆画や版画を密かに安く買い集めることが出来た。
北斎の研究やコレクターの立場から「ふる里村情報」9号(1987年6月10日発行)で、北斎の「富嶽三十六景」のコレクションを紹介し、浮世絵が印象派に大きな影響を及ぼしたこと、高額なゴッホ絵画落札に西洋文化一辺倒を警鐘して、日本文化の再評価を強く主張した。(写真@)
北斎の正当評価は天皇皇后両陛下の御見識から
半年後、まるで博士の提唱に賛同されたかのごとく、東京渋谷の塩とタバコ博物館で開催された北斎展に皇太子御夫妻(現天皇皇后両陛下)が浮世絵鑑賞に訪れた。
戦後、北斎の春画の研究本が数多く出版され、北斎の悪いイメージの中で、北斎を日本が誇れる世界的な大芸術家として正当に評価された現天皇皇后両陛下の御見識と勇気は将に日本文化の再生の出発点となったと博士は語った。
ゆえに、当時の新聞、テレビ等のマスメディアや美術研究家達が皇太子夫妻の北斎展の御鑑賞のニュースに驚いたのは言うまでもない。
それによって1988年は、将に北斎ブームが日本国中に沸き起こった年であり、サザビーズのオークションでも北斎の作品価格が一挙に5倍も跳ね上がるなど、海外でも浮世絵に対する評価が大きく変わった。
しかし、既に北斎の本物の肉筆画等は、博士がコレクションしてしまった後だと言う。
日本のトップは早くから五井野正氏の芸術作品に注目していた
9号の北斎特集の前に「ふる里村情報」8号(写真A)では博士自らが創作した絵画友禅着物(写真B)を歌手の中村晃子女史に着せて発表した。皇后陛下の十二単衣の担当者と言われる人から出版社に特別な評価のお褒めの電話が入り、また、中村晃子女史に九州一の偉い人から“晃子ちゃん、すごい着物を着たね”と言われたこと等、博士の芸術作品や「ふる里村情報」が日本の上の方々にも読まれて話題になっていたことがわかる。たが、またもや展覧会の準備を進めると、田川市美術館と同じように又ここでも圧力がかかったのか、突然に五井野画伯企画の作品の展示は認めないと言ってきた。
しかし主催者側の強い抗議によって今度もその要求を撤回させたが、美術館側の非協力姿勢の中で展覧会が開催され、それでも田川市美術館での展覧会と同じように大好評で終わった。
そして3ヶ月後の7月にはデンマークやアルメニアで展覧会が行われ、9月には米国で展覧会が行われた。
翌年の平成7年の夏には、ついにロシアの国立プーシキン美術館に続いて、世界三代美術館の一つエルミタージュ美術館で開催され、現存画家では世界で初めての展覧会が開かれたと評価される程の快挙を成し遂げたのである。
それは、博士が1974年から始めた、空き缶やタバコのモク拾い運動、富士五湖の汚染問題等の環境美化運動(写真C)、リサイクル村やふる里村運動等が日本のトップからも評価を受けていた事と無関係でないだろう。
例えば、1982年7月に創刊された「ふる里村情報」(写真D)の表紙は朝日新聞に博士が造ったリサイクル村として大きく掲載された西伊豆の「若葉の里」であるが、かなり後で博士の母親がこの里に住んだ時、天皇皇后両陛下が、松崎町堂ヶ島の洋ランセンターにこられた事があった。
有力者から博士の母親に、絶対に来なさいと言われて出向いたところ、最初に天皇陛下からお声がかかり、「どこから来たのですか」と質問された。
博士の母親は山中の辺ぴな地名を言うのが恥ずかしくて、もじもじしていたら、皇后陛下が優しく微笑み掛けてくるので、母親はその眼をじっと見つめて、優しい眼だったよと後に博士に語った。博士は「何で若葉の里から来たと言わなかったの。天皇陛下はお母さんの返事をずっとまっていたんだよ」と悔しがり、今でも残念だと言う。
天皇皇后両陛下のあたたかく優しいお気持ちが、博士のふる里村運動に大きな心の支えとなったのは言うまでもない。
前一部上場会社の筆頭株主の地位を捨て歌川派門人会を結成
博士は天皇両陛下が浮世絵にご理解されたことに感激し、印象派に大きな影響を与えた浮世絵、特にゴッホやモネが集めた浮世絵コレクションを再現する事によって日本文化の再評価を国内外に示すことを決意した。
有志と共に新日鐵の子会社であった電炉の東海鋼を再建して筆頭大株主になっていたが、その株が北斎ブームの1988年の時に400円前後に値上がったので、有志にも呼びかけ株を全部売って浮世絵を全世界から買い集めた。
ゴッホの浮世絵コレクションのほとんどが歌川派門人の浮世絵なので歌川派門人の作品を中心に集めた。
ゴッホは歌川派工房に憧れてアルルに画家達の共同工房を作ったが、その道半ばで挫折した。そのゴッホの夢を受け継ぐのと日本文化復興の為、すたれた歌川派を再興しようと平成2年(1990年)8月に博士が歌川派門人会を創立して初代会長となった。
平成6年(1994年)7月、モネが集めた2枚の大首の写楽を含む印象派に影響を与えた浮世絵を展示する“印象”(インプレション)展をヨーロッパで開催するに至った。
その反響は大きく、ヨーロッパ各国の美術館が開催希望を申し込み、毎年ヨーロッパで展覧会を開くことになった。もちろん、日本でも大手新聞社が“印象”展の開催を希望してきた。局長クラスの人達と展覧会の会場選定など話し合い、全てが順調に進んでいた。
ところが突然に平成6年1月に田川市美術館で開催された展覧会での五井野正画伯の絵画に対する妨害行為と同じ様な圧力が掛かって何と中止に… (つづく)