チェルノブイリ事故から20年(5)
広島・長崎の原爆症とチェルノブイリ事故の体内被ばくの関係
5月13日の新聞各紙の一面には原爆症訴訟裁判に被ばく者勝訴の記事が載った。この裁判は原爆症の認定申請を却下された9人の原告が国に対し認定を求めたもので大阪地裁判決は現在の国の認定制度が不十分であることを認め、被ばく者の救済範囲を拡大することを示唆していた。
1945年に広島・長崎に原爆が投下されてから今年で61年目。半世紀以上が過ぎて未だに原爆被災者の後遺症問題が続いていることに国民は驚きに近いものがあったのではないだろうか。
しかし裁判は長く、金も苦痛もかかる。水俣公害訴訟でもそうだが被害者が裁判で争ってまで国民に訴えなければ事の重大性や問題性が浮き彫りにされない。
「原爆症」認定とは?
広島原爆では20数万人の人が死んだ。さらにそれ以上の数の人達が原爆の被災者となった。
しかし国は何もせず、原爆投下から12年後の1957年にやっと被ばく者援護法を制定して原爆による被害者を援護する形で被ばく者健康手帳が発行された。
2005年3月末現在26万6598人の人たちがこの手帳を取得したが、その中でも継続的な治療が必要とする人たちに対し、医療特別手当(現在月額13万7840円)が支給されるが、それには「原爆症」と認定されなければならない。
この認定をめぐって裁判が争われたのである。報道によると今回裁判で勝訴した原告の一人は20歳のとき、爆心地から1・9キロの地点で爆風で隣の屋根まで吹き飛ばされ、体中血だらけの状態となった女性。原爆の爆風による被災者であった。ところが問題は、それから23年後に起きた。突然に貧血で倒れたり吐血したりするようになり、彼女は原爆の後遺症だと考えた。そこで「原爆症」の認定を申請したが却下された。
理由は原爆の被害から23年もたっているために原爆との因果関係が証明できないと言うことであろう。
また広島の爆心地から約1・5キロにいた原告の女性は熱線で右目が失明し、左目も白内障となったが「原爆症」と認められなかった。しかし一般人から見れば明らかに原爆の影響によるものと考えられるものだが、国の判定基準はNOであった。基準はどうであれ国の判断は常識的に全くおかしいと誰しもが思うはず。
国の認定基準は、1・本人が被ばくした地点の爆心地からの距離に存在した放射線量、つまり原爆投下後1分以内に放出された初期放射線の量を基準としていた。
そして、この放射線量はT65Dと呼ばれた暫定線量からDS86と呼ばれる線量評価システムの計算値となったが、あくまでも強度の放射線の体外被ばくが対象だった。チェルノブイリ原発事故で大きな問題となった放射能による体内被曝を全く考慮に入れていないものだった。
そのため被ばく者健康手帳を所持している人でもこの内、「原爆症」と認定された人はわずか2251人しかいない。殆どの人が基準値以下、つまり軽度の放射線被ばく者と判断されたが、原爆症特有の指定された病状を持つ患者には健康管理手当(月3万3900円)が支給された。
逆に言えば「原爆病」特有の病気と診断されたのに、何故「原爆病」と認定しないで健康管理手当と名を変え、金額も医療特別手当の四分の一と差をつけるのだろう。
医師が見た被ばく者の実態
その謎を解決してくれそうな一冊の本があった。それは『内部被ばくの脅威』(ちくま新書発行 肥田舜太郎/鎌仲ひとみ著)と題した本である。
著者の肥田氏は医師で、広島原爆の被災患者を助けるべく原爆投下後に広島市街に入り、体内被ばくを受けた、いわゆる今回の裁判でも問題となった入市被ばく者でもある。
原爆が投下された日、肥田氏は自転車で広島の市街地へ向かう途中「人間」とは見えない人影を見て驚いた。人間の形をしているが全身真っ黒で裸の胸から腰から無数のボロキレが垂れ下がり、両手の先から黒い水が滴り落ちている。
よく見ると顔は人の顔とは思えないほどに膨れ上がり、ボロと見えたのは人間の生皮、滴り落ちる黒い水は血だった。肥田氏を見るとうめき声を上げてその場に倒れた。肥田氏が最初に見た広島原爆の第一号の死者だった。
それから肥田氏は医者の立場として数えきれないほどの原爆被災者の病症を見ることになる。その中で原爆の爆発時に市内にいなかった人が後で市内に入って、原爆で死んでいく被災者と同じ病状で死んでいく人もたくさんいた。放射能を体内に取り入れた体内被ばく患者である。発熱に始まり、下痢、紫斑、口内壊死、脱毛、出血というお決まりの病状で死亡する。
米占領軍による隠蔽工作
この様な放射能による被ばくの実態を知るために京大医学部が原爆投下後、直ぐに現地調査をして「原爆障害に関する報告 第一〜第四」の研究報告をまとめたが占領米軍に提供させられ、以後日本の医学学会の調査・研究は制約禁止させられる。
さらに原爆投下の翌年の1946年、厚生大臣から原爆被害に関する情報は一切米軍の機密に属するため開示してはならない通達が病院や医師たちに出された。その結果、医師は原爆被ばく患者のカルテを作成出来なかった。
そのため多くの被ばく者は原因不明の病気として病院から見放され、生き地獄の中で死んでいった。1949年広島の比治山で米国のABCC(原爆障害調査委員会)が被ばく者を集めて治療を行わない観察検査を行い、患者が死亡すれば全身を解剖し、全ての臓器を米国に送って放射線障害の研究材料とした。
そして広島、長崎の原爆被ばく者は終戦直後から米占領軍の命令によって知り得た情報や体験した被ばくの実状を人に語ったり、書いたりする事を一切禁止された。
警察からも監視されたため、被ばく者は周りから犯罪人に思われるのを恐れ、自らが被ばく者であることを隠すようになる。
1956年に日本被ばく者団体協議会が結成されたが、反米活動の危険があるとして各地の警察から監視体制が布かれた。そんな状況の中で1957年に被ばく者を援護する法律が制定され、被ばく者健康手帳が発行されたのだ。
つまり被ばく者を援護するとは表向きで、実態は米占領軍の下で政府が被ばく者を都合よく管理、監視体制を作り上げるためだったのではないだろうか?!それゆえ被爆者として登録しないものも多く、肥田氏は著書の中で広島、長崎の被ばく者は百万人位いると記述する。
“原爆ぶらぶら病”は低線量放射線による障害
肥田氏は著書の中で、被爆者特有の症状として当時“ぶらぶら病”と呼ばれた病名を指摘している。それは検査でどこも異常がないと診断されても病気がちで身体がだるく、仕事に根気が入らず休みがちになる。それゆえ家族や仕事仲間から怠け者というレッテルを貼られ、様々な悩み、不安の中で生きていた人たちと説明する。
「ぶらぶら病」とは日本の民医蓮が国連に出した報告書「広島・長崎の原爆被害とその後遺」の中で明らかにされている。要約すると、
1・被ばくによって様々な内臓系慢性疾患の合併が起こり、わずかなストレスによって病症の増悪を現す。
2・体力、抵抗力が弱く「疲れやすい」「身体がだるい」「根気がない」などを訴え、人並みに働くことが困難。
3・意識してストレスを避けている間は病症が安定しているが、何らかの原因で一度病症が増悪なると回復しない。
4・病気にかかりやすく、かかると重病化する等である。
このぶらぶら病と全く同一の病症を米国医師ドンネル・ボードマンが大気圏核実験で被ばくした米兵の中にたくさん見出した。ボードマンはこの病症を低線量放射線障害によるものと断定した。
しかし、この「原爆ぶらぶら病」と呼ばれる低線量放射線障害は「原爆病」認定患者には指定されていない。そして低線量放射線障害は一代では終わらず子供たちにも影響していく。子供たちの登校拒否や成人病にかかるなどの老人化などは放射線の影響と考えられないであろうか!
ペトカワ倫理は被ばく者に「原爆症」認定の門を開く
1972年、ホワイトシェル研究所のアブラム・ペトカウは短時間の高レベル放射線よりも低レベルの放射線を長時間放射したほうが細胞にダメージを与え易いことを発見した。これは強度の原爆放射線の体外被ばくよりも低レベルの放射能の体内被ばくのほうが人体に大きな危険があるということ意味している。
これにより0.01から0.1グレイの最小線量の体内被ばくによっても人体に大きな危険を受ける可能性が出てきた。これはDS86の体外放射線量を基準にした国の認定基準値を十分の一以下に引き下げる余地を示唆している。すると爆心地より1.5キロ、2キロはもちろん、5キロ以上の遠距離にいた人でも人体に危険を及ぼすほどの被ばくが考えられるようになった。今まで「原爆症」患者と認定されなかった人達に大きな道を開くことになる。
ペトカウ理論を支持したヨーロッパの科学者グループ、欧州放射線リスク委員会(ECRP)はチェルノブイリ原発事故の体内被曝の影響を考慮して、それまでの国際放射線防護委員会(ICRP)が公表した1945年から89年までに放射線被ばくで亡くなった人の数117万人と言う数字に対し、6160万人と言う数字に訂正した。
となれば広島・長崎の原爆で1950年までに34万人が死亡したとされる数字は訂正されて、さらに大きな数字となる可能性がある。
広島の原爆資料館で何を学んだのか!?
米国政府は広島・長崎の原爆投下について原爆の影響は局部的で放射能汚染は問題がない、放射線で死んだ人の数は少ないとの公式発表を行うだけでなく「平和をもたらした兵器」「第二次世界大戦を終わらせ100万人の米兵が無駄に戦死することを回避した」と述べてきた。
しかし、その様な主張が全く嘘である事は今なら日本人なら誰でもわかるだろう。
広島原爆資料館を一昨年の11月に訪れたロシア国会議員でチェルノブイリ原発事故処理の当時の総指揮官であったヴァレンニコフ元帥は館側の戦争終結のための原爆投下の説明に対し、それでは広島に米軍の脅威となる軍事工場や軍隊があったのかと厳しく質問した。そして、ないとの館側の返答に対し市民や女、子供の抹殺に怒りを覚えながら広島に原爆を落としたのはソ連への威嚇のためだったと強く主張した。
広島で苦しんで死んでいった人達に対しヴァレンニコフ氏はチェルノブイリ原発事故で多くの仲間たちを失った悲しみの体験と重ねて、しばらく涙を浮かべて沈黙した。広島、長崎、チェルノブイリと共通した放射能による悲惨な悲劇に落とす涙に国境はなかった。