放射線災害の歴史と現状@
原爆被ばく者の特徴
今まで福島原発事故の現状とその事故の原因や政府、東電などの対応などを述べてきましたが、今号からは放射線被ばくの人体の影響に関して、どうして政府、学者、有識者において被ばく量の基準がまちまちなのかの原因を世界最初の原爆被災国である日本が戦後、どのような経緯をたどって今日までに至ったのかの歴史をたどりながら改めて放射線被害の現状と今後の日本のあり方などを説明していきたいと思います。
広島・長崎の原爆投下以降の 放射能による人体の影響や 研究、データは公開禁止された
国民は放射能とは怖いものと広島・長崎の原爆や度重なる核実験で子どもの頃から体験的に知ってきている。ところが、学術的な世界では広島・長崎の原爆投下以降の放射能による人体の影響の研究やデータは公開禁止どころか研究をする事自体も禁止されて、それゆえ、60年以上経った今日ではもはや放射能による人体の影響など知りえる学者や医者などは特殊な存在となってしまっているのが現状であろう。
その理由として、占領下では連合軍最高司令官総司分部(GHQ/SCAP)によって意図的な言論統制や原爆被害の実態からの学術研究が閉ざされてしまったことが大きな原因と言えよう。
例えば、広島・長崎の原爆投下後に、京大医学部がすぐに現地調査をして「原爆障害に関する報告第一〜第四」の研究報告をまとめたが占領米軍に提供させられ、以後日本の医学学会の調査・研究は制約、禁止させられてしまったことや1945年9月下旬から日本映画社が原爆被害の実態を撮影したが米軍からの管理下となり完成された後にフィルムを米軍に没収されてしまったことなどでも理解できるだろう。
また、原爆投下の翌年の1946年、厚生大臣から原爆被害に関する情報は一切米軍の機密に属するため開示してはならない通達が病院や医師たちに出されたことなども大きな原因となっているだろう。
その結果、医師は原爆被ばく患者のカルテが制作出来なくなってしまい、そのため多くの被ばく者は原因不明の病気として病院から見放され、生き地獄の中死んでいっただけでなく原爆を原因とした死亡者という数に含まれなかったのである。
例えば、原爆被ばく者の特徴として爆心地から2キロ以内の被ばく者はほとんどが即死、まぬがれても重度、場合によっては中度のやけど障害だったが、2キロ以遠での被ばく者は外見上軽いやけどであっても3?4ヶ月位経つと、やけど部分の組織の自己修復が過剰に起こり、皮膚面がガザガザに隆起するケロイド状態になる。外科手術でケロイド状の皮膚を取り除いて新しい表皮を移植しても何度も再発し、やがては皮膚がただれ、潰瘍となって最後には心筋梗塞や脳梗塞、さらには血液ガンになって苦しんで死んでゆくのである。
(写真1) 写真1は今年5月6日発行の『FRYDAY』増刊号に掲載された東海村の臨界事故で放射線被ばくしたJOCの男性社員の写真であるが、一目見ただけで私たちが原爆病としてイメージする病状だということがすぐにわかる位、国民の脳裏に焼きついていると思う。
すなわち、高放射線量を浴びると、初めに皮膚が赤く腫れ、次に痛みを伴い、やがて水泡ができ、ビランになって潰瘍が形成され、細胞がガン化する前にほとんどの患者は放射線障害で苦しんで死ぬのである。
また、原爆の直接的被害を受けなかった場合においてでも、内部被ばくした母親の胎内の3週〜17週の胎児に小頭症が多く見られたと言う。小頭症とは同年齢者の標準より頭囲が半分以下で脳の発育遅延を伴う。脳のみならず、身体にも発育遅延が起き、致命的であるものは、成人前に死亡する。
さらに、大量の放射線を浴びた被ばく者の多くは白血病を発症した。白血病の発症率は被ばく線量にほぼ比例し、若年被ばく者ほど発症の時期が早かった。白血病の治療方法はなく、発症者の多くが命を落とした。発症のピークは原爆が投下されてから6〜7年後の1951年、1952年であった。
被爆者の情報コントロールは、 かつては米国軍部や日本政府、
今は原子力村や政府官僚たち
1946年に広島・長崎に設立した、米国のABCC(原爆症害調査委員会)は被ばく生存者の追跡調査を行うため1949年広島の比治山で被ばく者を集めて治療を伴わない観察検査を行い、被ばく者が浴びた放射線量のデータ取りを行った。患者が死亡すれば全身を解剖し、全ての臓器を米国に送って放射線障害の研究材料にした。
このようなことが日本政府や医者たちも協力して平然として行われたのは、GHQの命令によって当時、広島、長崎の原爆被ばく者たちは知り得た情報や体験した被ばくの実状を人に語ったり、書いたりすることを一切禁止されていただけでなく、新聞・雑誌などで被ばく者たちを「放射能を人にうつす存在」あるいは重いやけどの病症を指摘して「奇異の対象」として扱われて人間の尊厳と人権が奪われていたからとも言える。
それゆえ、原爆被ばく者は米国軍部や原子力産業にとって丁度良い放射線被ばくのサンプルとして使われてしまい、日本政府も医者もGHQの指令に従って被ばく者に対する偏見・差別を持ちながら科学的研究という名目の中で進んでABCCに協力したと考えられるのである。
このような社会的背景の中で、原爆被ばく者に対する偏見や差別の報道は被ばく者の精神や生活に深刻な影響を与えるだけでなく、当時は警察からも監視されたため、被ばく者は周りから犯罪人に思われるのを恐れ、自らが被ばく者であることを隠すようになった。
このことは今も福島原発事故による放射能汚染のイメージによって福島県ナンバーの車や福島県の農業、畜産業の人たちが放射能を撒き散らしたり、放射能汚染した食料を売り散らす犯罪者のような存在として差別する人たちもいるために、福島県民が県外に出ても福島県民であることや被ばく者であることを隠す人がいることからも理解出来るだろう。
かつては米国軍部や日本政府がバックに被ばく者に対する情報コントロールを行い、今は原子力村や政府官僚たちがバックにいて被ばくに対する情報コントロールを行っていることは背景が少し変わっているだけで本質的なことは少しも変わっていない。
何故、罪のない被ばく被害者たちが政府や官僚、学者から腫れもの扱いにされ、社会から除外されてゆくのであろう。戦争で負けたとは言え、原爆被災者には何の罪もない。なんと日本人は戦勝国の米国の意向とは言え、翻って原爆被災者となった日本人に対し弱い者いじめをするのだろう。
それゆえ、戦争と原爆で全てを失いながらも、命だけは取りとめた原爆被ばく者たちは10年以上も病苦と貧困と差別に耐え、社会から離れて暗くて不安な裏路地で生きながらえてきたのである。
結局、被ばく者たちに社会から光が当たったのは、1954(昭和29)年、米国のビキニ水爆実験で第五福竜丸の乗船員が放射能被ばくを受けたことによって国民的な原水爆禁止運動が起こってからの事である。
つまり、ビキニ水爆実験の2年後の1956(昭和31)年8月10日に第2回原水爆禁止世界大会が長崎で開かれ、被ばく者の全国組織=日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成された時から被ばく者たちは声を大にして社会の表舞台に出てくるようになった。
その宣言の中で、「かくて私たちは自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのです」と述べて「原水爆の禁止」を強く主張しながら、「犠牲者に国家補償と健康管理制度」「遺族に生活保障」「根治療法の研究」を要求したのである。
(次号へ続く)