放射線災害の歴史と現状A
「原爆ぶらぶら病」は被ばく者特有の病状
「原爆医療法」の基準によると 被ばく者の定義は、強度の放射線外部被ばくした人たちだけを指す
しかしながら、反米活動の危険があるとして各地の警察から被ばく者への監視体制がしかれた。そんな状況の中で原爆投下から12年経った1957年に被ばく者を擁護する「原爆医療法」の法律がやっと制定され、被ばく者健康手帳が発行された。
この手帳によって医療費が無料になるが申請の条件は爆心地からの距離、爆心地に入った日時、被ばくしたことを保障する証人など、一定の基準を満たさないと却下されてしまうのである。
と言うことは、被ばく者を援護するとは表向きで、実態は米占領軍の下で政府が被ばく者を都合よく管理、監視体制を作り上げるためだったのではないかと疑ってしまうような内容と思えてしまうのである。
と言うのも、「被ばく者」という国の認定基準は本人が被ばくした地点において、爆心地からの距離に存在した放射線量、つまり原爆投下後1分以内の放出された初期放射線量を基準としていたからである。
しかも、この初期放射線量は1957年にネバダ核実験場の中に日本家屋を建設し、核実験を行ってその時の放射線量を測定したT57Dと呼ばれた暫定線量から計算され、その審査結果によると、爆心地距離1・6〜1・8qまでの直接被ばく者のみが原爆症と認定され、2q以遠の遠距離被ばく者や入市被ばく者、救護被ばく者などは実質的には認定対象にならなかったのである。
それゆえ、爆心地点から1・6〜1・8qの距離にいた人は既に殆どが死亡しているために「原爆病」に認定された人は数十万人という被ばく者の数から見ればたったの2000人というわずかな数字だった。
このように被ばく者を救済する制度というよりは被ばく者の数を統計上小さく見せるという制度と言ったほうが理解しやすい現状なのだ。
結局、広島に原爆が投下された後に、日本政府がスイス政府を通して8月10日に市民に対して原爆による無差別虐殺が国際法に違反するという内容の抗議文を米国政府に提出した事などが米国政府に少なからずの影響を与えたと思われてくるのだ。
すなわち、スイス政府も米国に非人道的な行為と非難したように人体に対する放射能の影響を考えると無制限に広い範囲の人間に危害を加える兵器を使ってはならないとする国際人道法に米国が違反しているからである。
そのため、出来る限り被ばく者の数を少なくしたいという米国政府や軍部の意図が働いたと考えれば、納得できる制度と言えるだろう。
例えば、この「原爆医療法」の基準によれば「被ばく者」という定義は強度の放射線外部被ばくした人たちだけを指し、2キロ以上離れた人たち、あるいは内部被ばくした人たちは「被ばく者」という定義から外れてしまっていたからである。
原爆病特有の病気と診断されたのに、原爆病と認定しない 国の判断は常識的におかしい
その後、T57Dは1965年にT65Dの暫定線量に変わったが、二つの暫定システムは前述したように核爆発による周辺の初期放射線量の推定式であった。
そして、原爆投下から23年経ってやっと「原爆特別措置法」が成立し、原爆病に認定された人や原爆症特有の病気を持った人たちに生活の手当てが支給されるようになったが、原爆の放射線被害を受けた人の大半は既に死亡していた。
そのため被ばく者健康手帳を所持している人でもこの内、「原爆症」と認定されて生活手当を受けた人は最近においてもわずか2〜3000人しかいないと言う。しかも「原爆症」と認定された人で継続的な治療が必要とする人たちだけに対し、医療特別手当(現在月額13万6890円)が支給され、治療がこれ以上必要ない場合は特別手当(現在5万5000円)に減額させられた。
そして、ほとんどの人が基準値以下、つまり軽度の放射線被ばく者と判断された。しかしながら、原爆症特有の指定された症状を持つ患者には特別に健康管理手当(現在月3万3670円)というものが支給された。
例えば、広島の原爆地から約1・5qにいた原告の女性は熱線で右目が失明し、左目も白内障となった。原爆特有の病状と言えるものであったが、「原爆症」とは認められなかった。しかし一般人から見れば明らかに原爆の影響によるものと考えられるものだが、国の判定基準はNOだったのである。
基準はどうであれ国の判断は常識的にまったくおかしいと誰しもが思うはず。逆に言えば「原爆病」特有の病気と診断されたのに、何故「原爆病」と認定しないで健康管理手当と名を変え、金額も医療特別手当の四分の一と差をつけるのだろうと疑問に思うであろう。
それゆえ、被ばく者として登録しないものも多く、その結果、放射線による被ばく者の数は実際よりは少なく見積もられてしまった。
結局、米国政府の思惑通り広島・長崎の原爆投下について原爆の影響は局部的で放射能汚染は問題がない、放射線で死んだ人の数は少ないとの公式発表が行なわれ、「平和をもたらした兵器」「第二次世界大戦を終わらせ100万人の米兵が無駄に戦死することを回避した」と述べてきたのである。
「原爆ぶらぶら病」と呼ばれる低線量放射線障害は、原爆病認定患者には指定されていない
しかし、その様な主張が全く嘘である事は今なら日本人なら誰でもわかるだろう。しかしながら前述したような歴史から、日本は原爆被災体験国でありながら、放射線被ばくの実態がつかめないどころか学者や医者によって放射能汚染は人体に影響がないという誤情報まで今も広めさせられてきているのである。
(写真1) そういう状況の中でも『内部被曝の脅威』(ちくま新書発行 肥田舜太郎/鎌中ひとみ著)と題した本は原爆被ばくの実態を教えてくれる貴重な本(写真1)と言えよう。
著書の肥田氏は医師で、広島原爆の被災患者を助けるべく原爆投下後に広島市内に入り、体内被ばくを受けながらも、医師の立場として数えきれないほどの原爆被災者の病症を診ることになる。
その中で原爆の爆発時に市内にいなかった人が後で市内に入って、原爆で被災者と同じ病状で死んでいく人もたくさんみることになる。放射能を体内に取り入れた体内被ばく患者である。発熱に始まり、下痢、紫斑、口内壊死、脱毛、出血というお決まりの病状で死亡する。
肥田氏は著書の中で、被ばく者特有の症状として当時”ぶらぶら病“と呼ばれた病名を指摘している。それは検査でどこも異常がないと診断されても病気がちで身体がだるく、仕事に根気が入らず休みがちになる。それゆえ家族や仕事仲間から怠け者というレッテルを貼られ、様々な悩み、不安の中で生きていた人たちと説明する。
「ぶらぶら病」とは日本の民医連が国連に出した報告書「広島・長崎の原爆被害とその後遺」の中で明らかにされている。要約すると、被ばくによって様々な内臓系慢性疾患に合併が起こり、わずかなストレスによって病症を悪化する。
体力、抵抗力が弱く「疲れやすい」「身体がだるい」「根気がない」などを訴え、人並みに働く事が困難。
意識してストレスを避けている間は病症が安定しているが、何らかの原因で一度病症が悪化すると回復しない。病気にかかりやすく、かかると重病化する等である。
このぶらぶら病と全く同一の症状を米国医師ドンネル・ボードマンが大気圏核実験で被ばくした米兵の中にたくさん見出した。ボードマンはこの症状を低線量放射線障害によるものと断定した。
しかし、この「原爆ぶらぶら病」と呼ばれる低線量放射線障害は「原爆病」認定患者には指定されていない。そして低線量放射線障害は一代では終わらず子供どもたちにも影響していく。子どもたちの登校拒否や成人病にかかるなどの老人化などは放射線の影響と考えられないであろうか!
(次号へ続く)