五井野博士×あおぽ編集長 特別対談
ゴッホの心を描いたワールド絵画(3)
・前回はゴッホが描いた『タンギー爺さん』の絵の背景に使われた浮世絵の話をしてもらいました。
「ハイ。富士・桜・芸者・日本の浮世絵でしたね。この『タンギー爺さん』についてゴッホは南仏アルルにおいて弟に、
『ここで僕はますます日本の画家の生き方で、自然の中に小市民として生きてゆくことになるだろう…もし僕がかなり高齢になるまで生きられたら、タンギー爺さんみたいになるだろう』
と、手紙を出しました。この文章でもわかるようにタンギーはゴッホに日本の自然の美しさや、その自然の中で絵を描きながら生きている浮世絵師の生活を教えていただろうと思いますね。
ゴッホはタンギーのことを恐ろしいほどの社会主義者だと手紙に書いていましたが、実は江戸時代の日本こそ自由、平等、公共心を持って博愛の精神でお互いに助け合う理想の社会主義国家だと思っていたんですよ。」
・え!そうなんですか。自由や平等、博愛、そして社会主義というのはフランスの国から持ち込まれたと思っていました。
「実は日本からフランスに影響したのです。”社会主義“という言葉自体はフランス人のビェール・ルルが1834年に「個人主義と社会主義」という文章を発行したのが最初と言われていますが、この場合の社会と言うのは個人に対する社会という意味ですよ。
つまり、日本は農作業にしても物を作るにしても個人作業ではなく昔から共同作業で仕事歌をみんなで歌って仲良く行いますね。例えば、茶摘みの歌やソーランのような漁師たちの歌や炭鉱節の歌などです。
ところで、浮世絵を製作する場合においても絵師から彫師から刷り師まで共同作業ですし、貧乏長屋でもみんなで助け合って生きていますから江戸時代は個人主義では生きていけない社会だったのです。それゆえ、日本では今でも自分の考え方よりも仲間や社会の考え方を尊重しますね。つまり、このような考え方は社会主義と言えるでしょう。
だから、ゴッホが日本の浮世絵師たちが共同で絵画を制作していたことに強く感動していたのもタンギーの社会主義的な考え方の影響があると思います。例えば、友人のベルナールに宛てた手紙では、
『僕は前から日本の芸術家たちがお互い同士の良い経験(pratigue)をよく教えあっていたことに長い間感動(torche)してきた。そのことは彼等の間に一つの確かな調和(harmonie)が支配する所の絆が築かれていたという証拠だ』(ゴッホの書簡B18 ベルナール宛 アルル 1888年9月末)
と、ありますからライバル意識を持って憎しみ合ってたパリの画家たちを嫌って日本にとって変わる南仏、つまり、アルルで共同工房の黄色い家を作るのです。それは、手紙でも、
『僕らは日本絵画を愛し、その影響を受け、全てのインプレッショニスト(モネ、マネ、ルノアール、ゴッホ、セザンヌ、ロートレックなど)の画家に共通することだが、それなら僕らはどうしても日本へ、いうならば日本同様のところに行くということだ。それは南仏だろう?』(ゴッホ書簡500 アルル1888年6月4日頃)
とありますから、アルルはゴッホにとって日本だったのです。例えば、ゴッホは妹のウィレミーンにアルルから、
『“僕は日本にいる”と、ここでいつも自分に言い聞かせているから、僕のほうは、ここでは浮世絵を必要としない』(W7 末妹ウィレミーン アルル1888年9月9日頃)
と、書いた手紙を出しているから、アルルをゴッホは日本に見立てていることがわかりますね。」
・そうなんだ。アルルの黄色い家は日本の浮世絵師たちの工房をまねしたんだ。
「そうです。ゴッホは日本は自由と平等の理想の国だと思っていたんですよ。例えば、『逝きし世の面影』(渡辺京二著、平凡社出版)(写真2)の第7章の「自由と身分」では、出島のオランダ商館に勤務していたフィッセルの言葉を参考にして載せています。
彼は西欧にいた時には「日本は専制主義の封建社会」と教わっていたけど、実際に日本に来るとまったく正反対で専制主義など存在しなかったと言っているのです。」
・じゃあ、江戸時代は封建社会じゃなかったのですね。
「そうです。フィッセルの言葉でも分かるように当時の西欧人が考えていた日本観がそのまま明治の日本に持ち込まれて教科書となってしまったのです。」
・へえーそうなんだ。
「そうですよ。さらにフィッセル氏は日本には西洋と違って奴隷制度という言葉もないと言っています。下層階級の人達も生活に満足していて、食べ物に困る貧乏人は存在しないとまで言っているのです。しかも、もっとも身分の低い商人でさえ最大限の自由が与えられていると述べているのですよ。」
・じゃあ、教科書では士農工商と教わったけど、実際には商人は身分も低くないし、自由があったんだ。
「そうです。しかも、江戸時代の武士というのは今でいえば公務員なんです。と言うのも、当時は農民の年貢が税金だったから武士は農民の身分を保証して職人や商人よりも大事にしたのです。
次に城や屋敷、家具などを作ってくれる職人を大事にしました。だから士農工商というのは身分制度と言うよりは、政府役人であった武士は農民の次に職人を大事にするという身分保障制度と言ったら分かりやすいと思います。
例えば、江戸時代の1854年にドンケル・クルティウスが本国のオランダに報告書を宛てていますが、この報告書では庶民はかなり自由な生活をしているけれど、公職者(武士)は不自由で、その頂点に立つ者(将軍、大名)は掟(おきて)を守る奴隷の頭(かしら)とも呼ばれていると書かれているのです。
つまり、今で言うと首相は法を遵守する奴隷の頭ということで、官僚は国民の奴隷ということですね。」
・すごいですね。官僚や政治家は国民の奴隷なんですか。今と全く正反対じゃないですか。
「そうです。日本は江戸時代までは西洋と違って憲法の国家であって法律の国家ではないのです。例えば、十七条の憲法に「和を以て貴しと為し」という有名な第一条の言葉がありますね。でも、第一条にはその後にこうも書いてあるのですよ。
“人はグループを作りたがるし、悟った人格者もいない。だから君主や父親に従わないし、近隣の人とも仲良く出来ない。しかし、上の人が和を以て接すれば下の人もなびくでしょう。そうすれば話もうまく行くはずだ”というのが憲法第一条なのです。
つまり、日本の憲法というのは国家の道徳観だったのです。だからといって和を破ったら罰則があるのかというとこれがない。
ですから、欧米のように“こうしろ、さもないとこうするぞ”という罰則を持った法律というものと考え方がまったく違うのです。強いて言うと、日本は人間を善人と見る性善説に基づき欧米はそれとは反対の性悪説に基づいていると言えるでしょう。」
・なるほど、面白いですね。西洋とは法律の考え方が違うのですね。
「そうです。だから当時のフランスの知識階級は日本のこのような社会を資本主義でもなく、共産主義でもない日本主義(ジャポニズム)という言葉で表現したんですよ。」
・そうなんだ。ビックリ!ジャポニズムという言葉はそういう意味があったんだ。
「その通り。しかも、さっき述べたフィッセル氏は日本のことを『この地上の天国、そして美しい自然』と言っているのです。もちろん、フィッセル氏でなく、ゴッホに大きな影響を与えた英国の詩人エドウィン・アーノルドも日本に来た時の印象を『地上で天国(パラダイス)、あるいは極楽(ロータスランド)に最も近づいている国』と述べているのですよ」
・そうなんだ。日本の江戸時代は西洋人から見たら天国だったんだ。
「そう、それがわかればアルルでのゴッホの手紙や絵がわかってきます。例えば、ゴッホの書簡543では、
『ここの天気は相変わらずいいし、もし四季を通じてこんなふうだと、画家の天国どころか、まるで日本そのものだ』
と、ゴッホが述べていることからも江戸時代の日本のイメージはゴッホから見て画家の天国になっていることでもわかるでしょう。」